支援・サービスとは、支援する際に当たり前に思っている既存の仕組みを経由するものだと思っていませんか?
海外では、同じ想いを持つ仲間が集ってチームを創れば、自分達で何に支援をしようと決めて、自分達で支援金や義援金を集めることが常識になっています。
日本でも古来から政府や官僚に頼ることなく(代官や役人は、少しでも農民や商人などから年貢を取り立ててお上に成果を報告して身を守るという時代に、そんな余裕があるのなら役所に全部支払え!と言っわれた時代です。)、地主や庄屋さんなどの地元のリーダーなどのリーダーシップ(お上にバレないように蓄財を使って)で、水害の対応や河川の堤防工事等を庶民の力で行ってきたというのが、定番だったようです。
もちろん、その地の城主や代官が先頭にたって護岸や治水に尽力したという史実も沢山ありますが、、、
つまり、日本では古来からみんなで集まって様々な問題に対処してきた経緯があるのですが、明治以後はなぜかそういうことは政治がやるものという教育により、いつのまにか、地元の諸問題であっても、政治に依存するという事が常識になって、自分達で解決しないのが常識になってきたと聞いています。
世界では、特に地続きの沢山の国家が隣接している欧州などでは、助け合うという概念が根付いていて、それは2022年春に起きている悲劇の中でも如実に表れれているのでメディアなどで我々も影響を受けていると思います。
海外の人達は「支援」という言葉がDNAレベルで身に沁みついています。
明治以降の道徳教育で、お金の話はしてはいけないという教育の成果が意味に効いている日本人も、3.11でボランティアが必要ということは学んだと思いますので、その殻を破って、日本の道徳で「汚い=タブー」と教育されDNAのようになっている状況から脱皮して、リアルな「お金」の支援が普通に行ってもも良いことだと思う人が増えるべきと私は思います。